NHKスペシャル「人生100年時代を生きる」
11月17日と18日の2夜連続放映で録画していたので、今日観た。
私は観たいテレビ番組は一度録画しておいてから改めて観るという方法なので、日にちがずれる。
17日の第1回の副題は「終の住処はどこに」
18日の第2回の副題は「命の終わりと向き合うとき」
現代は生きていく辛さもあるけれど、死んでいくのにでさえ、なかなか大変な時代になってしまった。
「終の住処はどこに」で、サービス付き高齢者向け住宅のことを取り上げていた。
通称「サ高住」
終の住処であるはずのサ高住で、退去しなければならない状態が起きていた。
経営者側からすれば、要するに会社経営なのだから赤字にすることは避けたい。
認知症があっても足腰がしっかりしている人は介護認定が低い。
徘徊があったりして介護側に負担は増えるのに利益は生まない。
そうなると、寝たきりの人のほうが介護認定の高いし介護保険料も高くなるから、そういう人を選別するようになるという実態を取り上げていた。
寝たきりにならないようにと、いろいろな取り組みが行われているけれど、実は認知症にならないことのほうが大切なのだというのが、第1回目も2回目も観た私の感想。
最も、安いと言われているサ高住でも私にはその料金は出ないけれど。
私が母を自宅で看れたのは、認知症はなかったけれど、歩けなかったからだ。
これが歩き回れて、認知症まであったら、私は働きながら自宅で介護はできなかったというのが正直な思いだ。
母の場合は入院は最後の3か月だけ。
あまりにも吐くので検査したら末期の胃がんだった。
手術はできなかった。
母は心臓も悪かったし、卵巣に巨大な腫瘍もあった。
その卵巣の腫瘍がみつかった時は、先生が、良性であろうがなかろうが、この大きさなら手術の対象なのだけれど、心臓のこともある。
と私に言ったのだが、その時にそばで一緒に聞いていた母が答えた。
「先生、灰になるまで持っていきます」と。
先生は私を見たので、母がそう言っていますのでとこれも手術はしなかった。
自分の意思をどこまで表せるか、第2回目の「命の終わりと向き合うとき」を観ても思った。
自宅で介護を受けている人が、呼吸がおかしくなって、家族が命の終わりかどうか判断がつかず救急車を呼んでしまう。
その結果、人工呼吸器をつなぐということになり終末期に病院で延命治療を受ける高齢者が増える。
意識が戻らないまま延命治療が続く。
それを受けないという家族と受けるという家族を紹介していたが、これも難しい。
母の時の最期の時。
呼吸が荒くなって、病院から延命治療のことを聞かれた。
私は受けないと言ったが、息子は受けると言った。
看護師さんが息子に苦しませるだけですよとさとすように言ったが、息子は「それでもばあちゃんは生きたいはずだ」と言った。
私の意見を通して、延命治療は受けなかった。
息子にとって、祖母の死は受け入れられないもので、娘の私からすれば母の死は受け入れられたという違いだ。
息子にとっての祖母はどんな状態になっても、生きていてほしい存在だったのだ。
あの時のことを思い出すと、今でも涙が出てくる。
ただ、私が両親に対して、唯一親孝行ができたことがあったとしたら、両親の側に息子がいたことだと思っている。
息子は私の両親に、優しさで、その受けた愛情にお返しをしている。
ひとつだけ、時代が変わったと思ったことは、人工呼吸器も胃ろうも、現在では途中でやめることができることだ。
ちょっと前までは、一度それらを付けてしまうと、外すことはできないといわれていたけれど、現代は違う。
それなら、外すまで家族の心の思いの整理もお別れの時間も十分とれる。
医療現場はいろいろな意味で変わってきている。
結構独居の私としては観ていて辛い番組だったが、観てよかった。

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11月17日と18日の2夜連続放映で録画していたので、今日観た。
私は観たいテレビ番組は一度録画しておいてから改めて観るという方法なので、日にちがずれる。
17日の第1回の副題は「終の住処はどこに」
18日の第2回の副題は「命の終わりと向き合うとき」
現代は生きていく辛さもあるけれど、死んでいくのにでさえ、なかなか大変な時代になってしまった。
「終の住処はどこに」で、サービス付き高齢者向け住宅のことを取り上げていた。
通称「サ高住」
終の住処であるはずのサ高住で、退去しなければならない状態が起きていた。
経営者側からすれば、要するに会社経営なのだから赤字にすることは避けたい。
認知症があっても足腰がしっかりしている人は介護認定が低い。
徘徊があったりして介護側に負担は増えるのに利益は生まない。
そうなると、寝たきりの人のほうが介護認定の高いし介護保険料も高くなるから、そういう人を選別するようになるという実態を取り上げていた。
寝たきりにならないようにと、いろいろな取り組みが行われているけれど、実は認知症にならないことのほうが大切なのだというのが、第1回目も2回目も観た私の感想。
最も、安いと言われているサ高住でも私にはその料金は出ないけれど。
私が母を自宅で看れたのは、認知症はなかったけれど、歩けなかったからだ。
これが歩き回れて、認知症まであったら、私は働きながら自宅で介護はできなかったというのが正直な思いだ。
母の場合は入院は最後の3か月だけ。
あまりにも吐くので検査したら末期の胃がんだった。
手術はできなかった。
母は心臓も悪かったし、卵巣に巨大な腫瘍もあった。
その卵巣の腫瘍がみつかった時は、先生が、良性であろうがなかろうが、この大きさなら手術の対象なのだけれど、心臓のこともある。
と私に言ったのだが、その時にそばで一緒に聞いていた母が答えた。
「先生、灰になるまで持っていきます」と。
先生は私を見たので、母がそう言っていますのでとこれも手術はしなかった。
自分の意思をどこまで表せるか、第2回目の「命の終わりと向き合うとき」を観ても思った。
自宅で介護を受けている人が、呼吸がおかしくなって、家族が命の終わりかどうか判断がつかず救急車を呼んでしまう。
その結果、人工呼吸器をつなぐということになり終末期に病院で延命治療を受ける高齢者が増える。
意識が戻らないまま延命治療が続く。
それを受けないという家族と受けるという家族を紹介していたが、これも難しい。
母の時の最期の時。
呼吸が荒くなって、病院から延命治療のことを聞かれた。
私は受けないと言ったが、息子は受けると言った。
看護師さんが息子に苦しませるだけですよとさとすように言ったが、息子は「それでもばあちゃんは生きたいはずだ」と言った。
私の意見を通して、延命治療は受けなかった。
息子にとって、祖母の死は受け入れられないもので、娘の私からすれば母の死は受け入れられたという違いだ。
息子にとっての祖母はどんな状態になっても、生きていてほしい存在だったのだ。
あの時のことを思い出すと、今でも涙が出てくる。
ただ、私が両親に対して、唯一親孝行ができたことがあったとしたら、両親の側に息子がいたことだと思っている。
息子は私の両親に、優しさで、その受けた愛情にお返しをしている。
ひとつだけ、時代が変わったと思ったことは、人工呼吸器も胃ろうも、現在では途中でやめることができることだ。
ちょっと前までは、一度それらを付けてしまうと、外すことはできないといわれていたけれど、現代は違う。
それなら、外すまで家族の心の思いの整理もお別れの時間も十分とれる。
医療現場はいろいろな意味で変わってきている。
結構独居の私としては観ていて辛い番組だったが、観てよかった。

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Last Modified : 2018-11-19